当日の行程
2025年6月14日土曜日、三池炭鉱関連の歴史や産業遺産について理解を深めることを目的に、大牟田市(福岡県)・荒尾市(熊本県)にまたがって広がる、三池炭鉱へフィールドワークに伺いました。参加者はOne Month for the Future のメンバー4名で、道中は「大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ」の(副理事長)藤木雄二さんにご案内いただき、午後には同団体(理事)の永吉守さんとの意見交換の時間を設けていただきました。
当日は、土砂災害や河川の氾濫を警戒するほどの大雨の予測でしたが、幸いにも曇りや小雨程度で、予定通りに実施することができました。午前9時40分に西鉄大牟田駅に着いてから、世界文化遺産にも登録されている、三池炭鉱専用鉄道で記念写真を撮影しました。三池鉄道は10km以上続き、10個以上あった坑口を繋いでいたそうです。

そして向かったのは、万田坑。万田坑ステーションの展示室で藤木さんに解説を伺ったり、展示物を見たり、万田坑の坑内を巡るVRを体験したりしました。事前に「大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ」藤木さんに送っていただいた三池炭鉱をテーマにしたDVD「三池 終わらない炭鉱(やま)の物語」(熊谷博子監督, 2006年)では、労働力を確保するため、当時の囚人を働かせていた、という説明がありましたが、万田坑では囚人を使っていなかったということでした。また、万田坑で働く人々は、社宅とある程度の給料を得ることができたため、徐々に希望して働く人が増えていったそうです。



続いて、宮原坑を経由して馬渡社宅跡記念碑(馬渡第一公園)へと向かいました。「馬」に関連する地名が多いように感じて藤木さんに伺うと、たしかにそうだという答えでした。また地名に直接関係があるか定かではないものの、炭鉱と馬の関わりは深いと言います。昭和6年に馬を坑内で使うことが国内で禁止されるまで、馬は坑内でも石炭を運搬する役割を果たしていました。三池炭鉱では、500頭の馬を買って、350頭の馬を日々使っていたそうです。ちなみに、盆踊り等で使われる「炭坑節」はオリジナルは筑豊の炭鉱で発祥し、三池炭鉱が全国へと広めたそうです。
馬渡第一公園内にある、馬渡社宅跡記念碑には、当時の社宅の写真や日本語と韓国語の建立文がありました。日本語の碑文は1997年にできたもので、韓国語の碑文は2022年3月と比較的最近追加されました。この地域の方々は、和解に重点を置く活動をされていたということです。また、工場は臨海部に乱立する場合が多いですが、ここ、三池炭鉱の場合は石炭が取れたところに工場を立地させたので内陸部に工場が集まる、という特徴も説明していただきました。




その後、集治監レンガ壁(三池工業高校壁)や明治からそのままの姿で残っているという三井港俱楽部に立ち寄りながら、三池港を経由して三川坑へと向かいました。600mという長い範囲にわたって現存する集治監レンガ壁は現在、工業高校の壁の一部となっており、剥がれかけの壁の表面に見えるひび割れやレンガから、この壁が見守り続けて来ただろう時の長さを感じました。大牟田市は最大人口21万人をピークに、現在は11万人程が暮らしているそうです。三池港では、近代化遺産を説明するパネル等から、この港の刻んできた歴史を感じとりました。港のそばに見えた、積んである石炭はここで掘っているものではなく、輸入して積んでいるものだそうです。


三川坑では、三池炭鉱の歴史を展示するパネルや、当時の労働者や労働組合が使っていた道具が展示されていました。当時使われていた鉄道の車体を見学し、坑内への入り口に入ることができました。注意事項の看板なども残っており、炭鉱労働の現場を感じられました。当時使われていた機械が残された部屋に入ると、例え現在は使われていなくても、機械が現役の時の熱気を感じられるような迫力がありました。






最後に向かったのは、石炭産業科学館です。企画展や常設展示を見学しました。科学館内ではボランティアの解説員のお話を興味深く伺い、「こえの博物館」デジタルアーカイブにて朝鮮人・中国人当事者の証言を視聴して理解を深めました。特に企画展「与論島から三池へ」の展示では、大牟田への移住の歴史が取り上げられ、多くの新しい気づきがありました。最後に、参加メンバーと永吉さんとの意見交換が行われ、当日の学びを共有するとともに、たくさんの質問に答えていただきました。本フィールドワークは、産業遺産としての三池炭鉱の意義だけでなく、その背後にある人々の暮らしや歴史的背景を多角的に捉える貴重な機会となりました。改めまして、今回のフィールドワークにあたりお時間を割いてくださった「大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ」の藤木さん、永吉さん、ありがとうございました。




参加メンバーの感想
大牟田についての私のイメージは、「炭鉱のまち」として日本の経済成長を支えたことに誇りを持ちながら、その後の産業を育てようと試行錯誤している、くらいのあいまいなものでした。それが今回、藤木さんにご案内いただき、石炭産業科学館を見学してボランティアガイドの方にお話を伺い、また永吉さんにお話を伺ったことで、いかに表層的にしか自分が知らなかったかということを実感しました。
印象的だったのは、お話しくださる方が口をそろえて「いろんな立場、いろんな考え方があるけれども…」と前置きされることです。それは大げさではないようでした。特に文字通り町中を巻き込んだ1959-60年の三池争議は、人びとのあいだに闘志ばかりでなく恨みや疑いをも生み、結局あの運動がどんな成果をもたらしたのかといったことについて、人びとのあいだには語られないわだかまりが沈殿したのでした。その後の爆発事故で家族を亡くした方や重い障碍を負った方など、言葉にできない思いを無数に抱えたまま閉山を迎えた炭鉱は、どう振り返ってよいか分からない「負の遺産」になってしまった――というのが、おぼろげながら私の理解したところです。「明治日本の産業革命遺産」の一部として三池炭鉱や三池港が登録されたことで、いくつかの坑口や港には詳細な案内が添えられ整備されていましたが、なかには朽ちるにまかせた木造の建築などもありました。
比べてよいかわかりませんが、「負の遺産」「負の歴史」といっても私たちが繰り返し訪れている水俣とはまた別の難しさを抱えている印象を抱きます。水俣の場合は、あえて単純化すれば、日本の経済成長と軌を一にした化学工業が環境を汚染しそれによって住民が甚大な被害を被った、というふうに語れます。被害者と加害者が(一応は)はっきりしており、かつ教訓も(単純化するなら)環境や住民の健康を侵害してはいけないという分かりやすい形にまとめられます。もちろん言い尽くせない背景や個別の事情があり、いつも自分の無知に打ちのめされますが、入り口は用意されている感があります。大牟田はそうした幹となる語りを形作ることが難しく、何をどこから語ってよいのか途方に暮れるようなところがあるようでした。しかしそこには、日本の近代化の辿った歴史が凝縮されています。それを前にして抱く戸惑いは、私たち自身の歴史に対する戸惑いかもしれません。
特にボランティアガイドの方が、ご自身の経験と思いをじっくり語ってくださったことが心に残っています。それまで無縁の機械としか思われなかったいくつもの遺構が、未だ知らないひとりひとりの歴史のよすがなのだと感じられる気がしました。
あわただしい予定にもかかわらず、最大限の経験ができるようにご案内いただきお話を聞かせていただいた藤木さん、永吉さんにあらためて心からお礼を申し上げます。
(M.A.)
私は福岡市で生まれ育ったものの、「大牟田」と言えば福岡県の最南端で炭鉱や「炭坑節」のイメージがあり、西鉄の終点駅で、「グリーンランド」に行く時に通るところ... くらいの乏しい知識しかありませんでした。今回のフィールドワークを通して、三池炭鉱を中心とした石炭産業の歴史を垣間見れた気がします。そして、年表に表されるような歴史的事実を知ることができた一方で、それをどのように認識できるのか/すればいいのか、どのような感情で読み取れるのか、に関してははっきりと分かりやすいストーリーで語ることができないモヤモヤを残したまま帰ることになりました。
フィールドワークに行く前は、負担も命の危険も大きな職業である「炭鉱労働者」として現場で働く方々と、それを安全な場所から監督する経営者層とで不公平な構造があり、他国から連れて来た人などより弱い立場の人たちに低賃金・長時間労働などの負担を強いるといったお話しを伺うことを予想していました。このような印象を、フィールドワーク当日に受けることも、もちろんありました。例えば、永吉さんに事前に送っていただいたDVD「三池 終わらない炭鉱(やま)の物語」(熊谷博子監督, 2006年)で、労働力を確保するために当時の囚人を働かせていたことや、フィールドワーク当日に「囚人と言っても、殺人犯などの凶悪な罪を犯したような人々ばかりではなく、政治犯や思想の違いで囚われた人々も含まれている」と言うようなお話しを伺いました。馬渡第一公園でも石炭産業科学館でも展示されていた、朝鮮半島の地名や韓国語が書かれた「馬渡社宅の壁書き」や「こえの博物館」デジタルアーカイブで視聴した朝鮮人当事者の証言を聞くと、朝鮮半島や中国から強制的に連れてこられて働かされた人の苦しみを感じたり、過酷な仕事をより立場が弱い人にさせることへの憤りを感じたりしました。
しかし、フィールドワーク当日に感じたことはそれだけではありませんでした。「総資本対総労働の戦い」とも表現される「三池争議」は「闘争」「争議」どちらの言葉で表現するかでスタンスに違いがあったたことや、ボランティアの方に教育現場での様子を伺い、「三池争議」は労働条件の交渉等の具体的な問題以上のイデオロギーの対立と、それに翻弄される人々の様子を知る機会だったと思います。また、もう一つ印象に残ったのは、当日開催されていた企画展「与論島から三池へ その歩みと今をたどる」の展示です。1898年に与論島を襲った台風をきっかけに、三池の石炭を大型船に積み込む長崎県・口之津や大牟田への移住が始まった経緯や、移住後の過酷な労働、賃金格差、言葉の壁などの差別の歴史が紹介されていました。炭鉱という国家が力を注いだ事業の現場で、不当な扱いを受ける人々、そして移住者という脆弱な立場にある人々への差別によって問題の認識と解決が遠のくという構造が、経済成長という国家の一大目標の中で苦しむ水俣の人々、そして脆弱な立場にあった漁師から被害が広がるという、水俣で見てきた構造と似通うものがあると感じました。同時に、不当な扱いを受けていた与論島からの移住者を想い、その歴史を伝えようとする企画展のおかげで、石炭産業という大きな歴史の流れの裏で記憶からこぼれ落ちそうになっていた人々の物語を知り、その記憶を流れ去らせない一端を担えるようで、この企画展と巡りあえて嬉しかったです。
最後に、私たちの学びのためにお時間を割いてくださった「大牟田・荒尾炭鉱のまちファンクラブ」藤木さん、永吉さん、準備を進めてくれたOMF のメンバー、ありがとうございました!
(S.L. )


