25年2月 ケープタウンで行われたパレスチナ連帯マーチにて
OMFでは月に1〜2回、運営メンバーによる自主勉強会を開催しています。
それぞれが気になったことや、学んだことを持ち寄り、自分では出会えない視点を得ることが目的です。今回は、特別編ということで、南アフリカと日本にルーツがある植田由希さんをお招きして「南アフリカ勉強会」を開催しました。
植田 由希氏
(ゾーホージャパン株式会社勤務/アフリカンユースミートアップ(AYM)メンバー)
1997年、南アフリカ・ケープタウン生まれ。父は南アフリカ人で反アパルトヘイト運動のリーダーだった。母は日本人。5歳で日本に来て、高校まで千葉で育つ。国際基督教大学(ICU) 卒業。政治哲学を専攻し、卒論では沖縄の基地問題をテーマにした。現在はインド系のIT企業で働きながら、パレスチナに連帯する活動に力を注いでいる。
皆さんは南アフリカに対して、どんなイメージを持っているでしょうか?
喜望峰やアパルトヘイトなどの世界史で聞いた言葉が思い浮かぶ方も多いのではないでしょうか。今回は特に「アパルトヘイト」という人種隔離政策、そしてその撤廃に向けた活動、現在の南アフリカに焦点を当ててお話しいただきました。
※本記事中に登場する画像は植田さんのご提供資料となります。
なぜアパルトヘイトが生まれたのか?
ーアパルトヘイトは「植民地主義」の実践と維持のために発明された。
1948年にアパルトヘイトが法制化されたタイミングでの人口比は白人20%、カラード・インド系10%、アフリカンが70%。1人1票の環境においては、これまでの白人優位の社会秩序が維持されないという危機感から発明された制度です。
「アフリカンに1票は不要」の背景
そもそも、南アフリカ(と現在は呼ばれる南部アフリカ)にはサンとコイコイと呼ばれる先住民族とバンツー系アフリカ人が住んでいました。しかし、1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックによりケープタウンに補給基地を建設したことによって植民地化への歩みを進めます。
ただし、南アフリカの開発において足りない労働力をオランダの他の植民地であるインドネシアなどの東インド諸島、マダガスカルやその他のアフリカ諸国から奴隷として補給しました。その数は約150年間で6万人と言われているそうです。
その後、1806年にナポレオン戦争の際にイギリス軍がケープ植民地を占拠するに至りますが、1834年本国に準じて奴隷制度が廃止されました。
その結果、労働力に窮したボーア人(オランダ系の白人)は北上し、結果的に金鉱山の開発に着手します。そして、その噂を聞きつけたイギリスも同様に鉱山開発を進め、セシル・ローズの存在に代表されるような巨万の富を築いていくのです。
そしてその権力は拡大し、アングロボーア戦争が勃発、一時休戦を挟みつつ、長期化した戦争は最終的にイギリスの勝利によって終戦となりました。
イギリス人とボーア人の講和会議において、ボーア側は「アフリカ人に選挙権を与えないこと」を条件として主張。結果的に、「アフリカ人の選挙権付与の問題は自治体設置後に決定する」として、1910年にイギリスは4植民地を統合し南アフリカ連邦を作ります
アパルトヘイトの起源
南アフリカ連邦ができたあと、「アパルトヘイト」の法制化以前から、差別法がいくつも立法されていきました。
ここに記載されるもの以外にも、「パス法」という黒人、カラード、インド系を対象にした行動範囲の限定を行う法律や、職業の固定化(鉱山労働者やメイドなど)といったことも行われました。

アパルトヘイトは研究成果であった
南アフリカのアパルトヘイト政策は、圧倒的少数の白人による支配を永続させようとした結果、「Divide and Rule」という分割統治に行きつきます。分割した居住区にて黒人を管理することによって、多数派の黒人の権利を体系的に奪い、白人の地位を安定させようとするものでした。


統治体制に対する対抗
1912年に黒人の運動としてANC(アフリカ民族会議)が設立されました。始めは黒人の中でもエリートの人を中心に始まり、その運動には3段階があると植田さんは説明してくれました。
- 1912年から:対話に基づく対抗
代表団の派遣や請願など。
- 1952年から:不服従運動
ストライキやボイコットなどの非暴力抵抗。
- 1960年から:武装闘争
シャープヴィル虐殺や、ANCなどの非合法化を受けて、UMkhonto weSizweを設立し、亡命下での軍事訓練および武装闘争を開始。非暴力な民衆の抵抗に対して、無慈悲な暴力が対抗措置として使われることから武力を用いた抵抗へと段階が移る。
こういった歴史の中には、特筆しきれない様々な活動が含まれます。
例えば1955年にANC主導の「人民会議」で採択された反アパルトヘイト闘争の指針となる「自由憲章(Freedom Charter)」の制定があります。人種に関わらずすべての国民に権利がある民主的な南アフリカのビジョンを提示し、後の民主憲法(1996年)の基礎にもなりました。
また植田さんが特に強調されたのは、一般的に南アフリカの解放運動はネルソン・マンデラなどの男性のリーダーのイメージが強くあるが、The 1965 Women’s Marchなど、多くの女性活動家の運動があったということです。

リヴォニア裁判 ー I am prepared to die.
1963年から1964年にかけてネルソン・マンデラら反アパルトヘイト活動家に対する裁判が行われました。武装闘争を計画したとして国家反逆罪に問われ、マンデラを含む指導者8人が終身刑の判決を受けました。
その裁判にて、マンデラは以下の言葉を含む4時間の演説をしました。
「生涯を通じて、私は人生をアフリカ人民衆の戦いに捧げてきました。私は白人支配と戦い、黒人支配ともたたかってきました。私は、すべての人々が調和のなかに平等の機会を持って共に生きる、民主的で自由な社会という理想を、心に抱き続けてきました。私は、その理想のために生き、その実現を見たいと願っています。しかし、裁判長、もし必要とあれば、その理想のために、私は死ぬことも覚悟しています。」(ネルソン・マンデラ伝 こぶしは希望より高く ファティマ・ミーア著)
この裁判は世界的な関心を呼び、民主化運動の象徴となりました。
名誉白人?
抵抗運動さなかの当時、国際連合をはじめとする国際社会は南アフリカに対して強い姿勢をとっていませんでした。第二次世界大戦以降、多くのアフリカ諸国が独立する中でアメリカなどの西欧諸国は南アフリカを反共産主義の砦とみなしていたからです。
表向きにはアパルトヘイトを批判はしつつも具体的なアクションをとらない状況が続いていました。しかし、米国やイギリスも国内での反対運動や市民の声に応じて、徐々に南アフリカに対する姿勢を硬直化させていきます。
しかし、我が国日本は、各国が南アフリカへの経済制裁を強める中で、1987年に貿易額で世界一位になりました。南アフリカの豊かな鉱物資源に目を付け、貿易を推進した結果、ついに1988年には国連にて南アフリカとの貿易に関して日本を名指しで非難する決議が採択されました。
南アフリカでは、経済的な結びつきを強化してくれる日本を「名誉白人」として扱います。当時の日本の大手商社の三井物産の社内報では「名誉白人」と呼ばれることを歓迎し、インド人や中国人、カラード、黒人を差別するような表現がなされていました。このあたり、驚きと同時に日本人として恥ずかしいやら悲しいやら…。
ネルソン・マンデラの釈放
1990年2月にネルソン・マンデラは27年間の獄中生活を終えて釈放されました。植田さんによると、この日のことを覚えている人々は「本当に信じられない日だった。マンデラが釈放されるまで何時間も外で待ち、トイレも行けない状態だったが、そんなことが気にならないくらいに、とにかく感動した。」と言っていたといいます。
アパルトヘイトへの抵抗運動は、もちろん制度の撤廃が目的にあったものの、南アフリカの資本主義との戦いだったといいます。宮本正興氏と松田素二氏は以下のように記します。
「それは、有色人、特にアフリカ黒人を劣等と決めつける人種差別思考の上に成り立つ考え方であったが、経済的には、白人には高級職種と熟練労働を、白人以外には低賃金職種と非熟練労働をあてがう搾取のメカニズムでもあった。それは南アフリカ資本主義の発達を支えることになる根本思想である」
アパルトヘイトが終わると同時に南アフリカは新自由主義(ネオリベラリズム)の世界に取り込まれることになりました。当時の抵抗運動を率いた人々の多くは解放後の南アフリカは社会主義・共産主義体制を採用するべきだと考えていたものの、その理想は実現しなかったのです。
現在の南アフリカ
賃金だけで見ると現在も、黒人と白人の間には5倍程度の格差が存在します。失業率に関しても、黒人は35.8%である一方、白人は8.1%と明確な差があります。農地のオーナーシップに関していえば、7割は今も白人によって所有され、そのほかの土地に関しても人口比率の最も少ない白人が約5割を所有しています。
政治的にはアパルトヘイトは終わっても、経済的には終わったとは言えない状態です。
富の分配の不平等に関する解決を以て真の平等の達成となるのであり、政治の幹部が黒人になって、一部の黒人がブルジョワ層に入り込むだけでは意味はないといったスティーブ・ビコの言葉は今の南アフリカへの警告のようにも聞こえる。
大統領となったマンデラは、その後、白人たちの所有する土地を没収したり、その罪を追求したりすることはなかった。それ故に、マンデラに対する批判も存在する。しかし、彼が何を目指していたのかを表現する文章として、植田さんは時事解説の峯陽一氏の言葉を引用する。
「貧しい黒人の暮らしを底上げすることで犯罪を減らし、肌の色にかかわらず、社会の一体感を強めていくこと。これが、政治家としてのマンデラの最後の課題だった。トランスカイの平和で平等な村で生まれたマンデラがいちばん心残りだったのは、この夢を果たせなかったことではないかと思う。Sampson[1999]をはじめとするマンデラの伝記作品の多くは、彼が「白人と妥協した」ことを賞賛するが、マンデラが心を許した真の友は、ウォルター・シスルやオリバー・タンボ、すなわち、彼よりも先に逝ったANCの黄金時代の盟友たちだったことだろう。彼らがともに夢見た未来の南アフリカの姿は、現在の南アフリカ社会の姿とは、まったく異なっていたのではないか。」
植田さんのお話を聞いて、南アフリカは、今もなお闘い続けているのだと感じました。
そしてこの闘いは、南アフリカの今を生きる人々だけの闘いなのではなく、その仕組みを創り出し、そして継続させた国や人々、つまり私達にとっても重要な課題です。
ネルソン・マンデラ氏と共に戦い、アパルトヘイト撤廃のために尽くした植田さんのお父さん、ジョニー イッセル氏は生前、「もしも他の国の人たちが南アフリカで起きていることに無関心だったら、自分はきっと監獄で殺されていた」と語ったといいます。これは、私たち一人一人が、いかに微力だったとしても、世界中で起きるあらゆる不合理に対して、声を上げること、そして関心を持ち続けることの重要性を教えてくれます。
理想の南アフリカはまだ道半ば。引き続き、南アフリカの状況に対して関心を持つとともに、多くの血を流しながらも黒人の自由と希望のために闘い続けた人々の姿勢に学び続けたいと感じました。
植田さん、この度は貴重な機会をいただきありがとうございました!
OMFメンバー参加者の声 — レイク沙羅
アパルトヘイト廃絶、そしてその後の南アフリカの歴史の一部を知ることで、人種差別と地続きの植民地主義からくる、多重の差別/抑圧構造に改めて気付かされる時間でした。世界的にも人種による賃金格差があるもの、特に南アフリカでは現在も人種による貧富の格差が明確で、(アパルトヘイトが終わったからといって過去の歴史とせず)このような構造的な差別と抑圧にも刮目し続ける必要があると感じました。同時に、人種の違いだけでなく、先住民やアパルトヘイト後に生まれた白人など「人種差別」とひとくくりにはできない視点も複雑ながらも忘れてはいけないと気付かされました。
個人的に、特に印象に残っていることは、反アパルトヘイト運動の中で、世界中の連帯が力になったというエピソードを伺えたことです。
パレスチナ連帯活動をしていても、アクションの“その後“を見る機会は少なく、あったとしても大きな規模のニュースであるためアクションの結果を知る頻度が低いので、反アパルトヘイト運動の中で人権保護団体のキャンペーンによって1人とその家族の人生が変わったかもしれない、というエピソードは、これからいろんなアクション/キャンペーンに関わる時に非常に強い動機づけとなりそうです。
質疑応答の際に、(例え、自分に抑圧/支配階級の属性があったとしても)まずは(被害を受けた側の)歴史を知ることからできる、という回答もあり、自分にもまだまだできることや、異なる立場の人とも一緒に抑圧/被抑圧の構造に立ち向かっていけるのではないかという希望を感じました。
由希さん、改めてじっくりと講義、そして質問へのご回答をしていただき、本当にありがとうございました。


