One Month for the Future(OMF)では、2026年1月から4月にかけて、石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』を読むオンライン読書会を、全7回にわたって開催しました。
OMFではこれまで、水俣スタディツアーや、水俣をテーマにした対話イベント、映画『水俣曼荼羅』の上映会など、さまざまな形で「一緒に水俣を知り、考える場」をつくってきました。
2026年は、水俣病の公式確認から70年となる年です。しかし、水俣病について学校の教科書で学んだことはあっても、患者や家族がどのような暮らしを送り、何を失い、どのような言葉を残したのかまで知る機会は、ほとんどありません。
そこで今回は、水俣について語り合い、深める場をつくりたいという思いから、石牟礼道子の『苦海浄土』の読書会を開催いたしました。
読書会には、さまざまな地域・世代から、水俣病について以前から学んできた方、『苦海浄土』を読んだことのある方、今回初めて本を手に取った方など、多様な背景を持つ方々にご参加いただきました。
毎回、章の内容や歴史的な背景を簡単に確認したあと、少人数のグループに分かれ、印象に残った場面や疑問について話し合いました。
読書会で大切にしたのは、一つの「正解」にまとめることではなく、参加者同士がお互いの感想を言い合い、聞き合うことで、一人では気づかなかった見方に出会い、自分の考えを整理することです。
第1回 「水俣病」ではなく、一人ひとりの生を読む
第1回では、『苦海浄土』という作品や著者の石牟礼道子について確認したあと、第1章「椿の海」を読みました。
そこに描かれているのは、病気の症状や公害の歴史だけではありません。山中九平少年やその姉・さつき、仙助老人をはじめ、それぞれに名前があり、家族があり、病気になる前の生活を送っていた人たちの姿です。
私たちは、「第1章を読んで何を感じたか」「印象に残った一文は何か」「想像していた水俣と違ったところはどこか」を話し合いました。
水俣病を「公害によって多くの人が被害を受けた事件」と一言でまとめることはできます。しかし、『苦海浄土』を読むと、その一言の裏側にあった、一人ひとりの生や死、家族の記憶に触れることになります。
教科書の中の出来事だった水俣病が、具体的な人の暮らしとして立ち現れてくる、そんな第一章でした。
第2回 なぜ、わかっていたのに止められなかったのか
第2回では、第2章「不知火海沿岸漁民」を読みました。
1959年、熊本大学研究班によって有機水銀説が公表され、チッソ附属病院では猫400号実験が行われていました。それでも、工場は原因を否定し、排水を流し続けました。患者や漁民が追い詰められる一方で、排水浄化装置「サイクレーター」の完成が大きく宣伝され、工場側が問題に対応したかのような印象もつくられました。
読書会では、「漁民たちが空へ投げた『泥』は、何を表しているのか」「なぜ漁民たちの声は届かなかったのか」「水俣のなかで医学、科学、政治はどのような役割を果たしたのか」を考えました。
対話では、泥しか投げるものが残されていなかったほど、仕事もお金も生活も奪われ、漁民たちは追い詰められていたのではないか、という意見が出ました。「空へ泥を投げる」という行為に関しては、訴えるべき相手がもはやわからなくなり、どこにも届かない怒りや絶望のようなものを石牟礼道子は表現したかったのかもしれません。
デモの一場面だけが切り取られれば、暴力的だという印象を受けます。しかし、そこに至るまで何度声を上げても聞き入れられず、省庁をたらい回しにされ、生活が失われていったのか。私たちが普段ニュースを見る際、いかに断片的な情報だけで物事を判断し、その背景にまで想像を巡らせていないかということに気付かされた回でもありました。
さらに、水俣にとってチッソは、加害企業であると同時に、多くの市民の雇用や市の経済を支える大きな存在でもありました。工場の従業員やその家族にも生活があります。そのため、患者対チッソという単純な構図ではなく、同じ地域に暮らす市民同士が対立し、被害を受けている人が別の場面では加害する側にもなり得る複雑な構造が見えてきました。
参加者からは、こうした構造は、「過去の話」ではなく、現在も続いているということ、そして、水俣だけではなく、原発や気候変動をめぐる問題にも繰り返し現れているのではないか、という意見も出ました。この構造が1959年の有機水銀説の発表後にも、工場が排水を流し続けることができてしまった一つの原因でもあると思います。
第3回 他者の苦しみを、誰がどのように語るのか
第3回では、第3章「ゆき女きき書」を読みました。
病気になる前、ゆき女は夫とともに舟に乗り、海の上で暮らしていました。章の中では、美しい海や夫婦舟での生活と、発病後の痙攣や病棟での生活が重ねて描かれます。
私たちは、ゆき女が魚の中に自分の赤ん坊を見る場面や、石牟礼道子が病理解剖に立ち会う場面について話し合いました。魚は、漁村に生きるゆき女にとって毎日のように食べてきたものです。魚と失った赤ん坊が重なる場面には、命を無駄にしたくないという思いや、失った子に対する罪悪感が表れているのではないかという意見が出ました。
同時に、大きなテーマになったのが、『苦海浄土』をどのような作品として読むのかということです。
『苦海浄土』には実在する患者をモデルとする人物や出来事が登場しますが、患者の言葉をそのまま記録した、一般的な意味での「聞き書き」ではありません。石牟礼道子は、患者の心の中の言葉を自らの想像力によって描き出しました。
参加者からは、「患者の魂に寄り添った文学だからこそ届くものがある」という意見がある一方で、「健常者である石牟礼道子が患者の内面を語ることに問題はないのか」「モデルとなった人や家族はどのように受け止めたのか」という疑問も出ました。
誰が、誰の言葉を、どのような立場から語るのか。これは様々な情報を見たり聞いたりする際に常に考えなければいけない点だと感じました。
第4回 「拝む」ことは救いなのか、諦めなのか
第4回では、第4章「天の魚」を読みました。
杢太郎少年の爺さまは、亡くなった人や病気になった家族、拾ってきた石や鱗を神さま・仏さまとして拝みます。また、海で魚をとり、その日を暮らす生活に、これより上の栄華があるだろうかと語ります。
そこには、お金や都市的な発展とは異なる「豊かさ」が描かれています。一方で、章の背景には、貧困や家父長制、女性が海外に売られていった「からゆきさん」の歴史、日本の朝鮮支配とチッソの進出など、近代化の影も描かれています。
読書会では、「拝む」という行為に何が託されているのかを考えました。どうにも変えられない現実を受け止めるため、亡くなった家族や病気になった子どもを神仏として拝むことで、かろうじて生きていたのではないか。それは、家族や死者とのつながりを失わないための行為だったのではないか、という意見が出ました。
その一方で、「患者を純粋で美しい存在として神格化することで、一人の人間としての怒りや喜怒哀楽が見えなくなるのではないか」「拝むことや赦すことが強調されることで、補償や被害回復を諦める方向に向かってしまわないか」という違和感も語られました。
声高に訴える人だけでなく、黙って耐える人の姿にも重い訴えがあります。しかし、声を上げる人がいなければ社会は変わりません。
「赦すこと」と「黙ること」は同じなのか。
「怒ること」と「生き直すこと」は両立できるのか。
これらはなかなか答えの出せない問いであり、このような葛藤を被害者の方々は生涯を通して抱えさせられたのだということを実感しました。
第5回 水俣を見る「外からの視線」と、届かなかった連帯
第5回では、第5章「地の魚」と第6章「とんとん村」を読みました。
水俣病が知られるようになるにつれ、水俣には記者、研究者、政治団体など、さまざまな外部の人が訪れるようになりました。しかし、その関心は、患者や住民の生活に寄り添うものばかりではありませんでした。
「水俣病を勉強しに来た」という言葉も、住民から見れば、自分たちの生活を研究対象として外から眺められているように感じられたかもしれません。貧困や病気だけを強調し、「遅れた漁村」として描く報道もありました。
外部の人たちは、水俣や水俣病患者に「こうあってほしい」という理想像を無意識のうちに押しつけてしまうのかもしれません。被害を訴えるために、常に「被害者らしく」振る舞うことを求められてしまえば、その人の複雑な感情や日常は見えなくなるのではないかという意見が出ました。
また、水俣の漁民が安保闘争のデモに合流した場面から、異なる社会運動のあいだで連帯することの難しさについても考えました。漁民たちは大きな運動に加わりましたが、安保闘争の側が水俣の漁民の苦しみに歩み寄ったとは言い難く、漁民の孤立は残りました。第5章では、その集団が「うつろな大集団」と表現されています。
第6回 沈黙の時間を経て、社会の問題へ
第6回では、第7章「昭和四十三年」を読みました。
1959年に見舞金契約が結ばれたことで、水俣病は一度「終わった問題」であるかのように扱われました。しかし、患者たちはその後も病気や貧困、差別の中で生き続けました。
1968年には水俣病対策市民会議が発足し、チッソ水俣工場第一組合は、それまで水俣病と闘わなかったことを「人間として、労働者として恥ずかしい」とする、いわゆる「恥宣言」を発表しました。水俣病が公害として政府に認定されたのも、この年です。
読書会では、患者の苦しみがどのように「個人の問題」ではなく「社会の問題」として描かれているのかを話し合いました。
水俣病を隠さなければ、結婚や就職、地域での生活が難しくなる。患者同士の間にも差別が生まれる。余計なことを言わず、黙っている方が安全だという空気が、長い時間をかけてつくられていく。
また、読書会ではチッソ社長が患者宅を一軒ずつ訪れ、頭を下げて羊羹を渡す場面についても触れました。謝罪することには意味があります。しかし、お辞儀や菓子だけでは、失われた健康や生活は戻りません。謝罪でどうにかなるものではない、いかに根深い問題であるかが最後のこのシーンに詰まっていたような気がします。
被害者と加害企業、患者と市民、チッソの第一組合と第二組合。水俣病をめぐっては、多くの対立と分断が生まれました。しかし、怒りの矛先が身近な人に向かうほど、本来責任を問われるべき企業や国の姿が見えにくくなってしまいます。
一概に誰か一人だけを責めることができないからこそ、個人の善意だけに頼るのではなく、同じ被害を繰り返さないための制度や社会の仕組みが必要なのではないかという話になりました。
全7回の読書会を通して、特に大きなテーマになったのが、制度からこぼれ落ちる人の存在です。制度をつくる側は、不正を防ぎ、予算を管理するために基準や境界線を設けます。しかし、どこかに線を引けば、その条件には当てはまらなくても、実際に苦しんでいる人が必ず生まれます。水俣病の認定制度だけではなく、生活保護、災害関連死の認定、難民認定など、現在のさまざまな制度にも共通する問題です。
「制度からこぼれ落ちる人をどうすれば取り残さずにいられるのか」
「マジョリティの利益のためにマイノリティが切り捨てられる構造は、現代のどのような問題に見られるのか」
「水俣病を語り続けることには、どのような意味があるのか」
こうした問いを通して、制度は自分たちから遠いところにあるのではなく、私たち自身もルールをつくる側になり得ること、そして、黙っていることも現在のルールを支えることにつながり得るのではないかと考えました。
参加者の声
読書会後のアンケートでは、参加者から次のような感想が寄せられました。
「他の方の言葉から考えさせられ、多くのことを学びました。」
「水俣病を個々の事例としてではなく、普遍的で現代にも当てはまる事象として考え直すことができました。」
「本の内容だけでなく、参加者から似た事例や水俣の知識を共有してもらい、知識や考えを深めることができました。」
「普通に生活していたら出会えない人と画面越しに知り合い、いろいろな意見を聞くことができました。」
その他にも、制度と私たちは地続きであり、投票や日々の行動を通して、地域や国を変える側にもなれる、という意見もありました。
最終回後のアンケートでは、「水俣について何も知らない状態から読み始めたが、さらに調べたいことが増えた」「これからも水俣について考えていきたい」「続編の読書会も開催してほしい」といった声も寄せられています。
水俣を学ぶことは、今の社会を考えること
全7回の読書会を通して、いくつもの疑問が浮かんできました。
原因が疑われていたのに、なぜ排水は止められなかったのか。
被害を訴える人々の声は、なぜ届かなかったのか。
企業や行政、専門家、地域住民は、それぞれの立場の中でどのような選択をしたのか。
他者の苦しみに共感し、その声を伝えるとはどういうことなのか。
そして、制度からこぼれ落ちる人を、どうすれば取り残さずにいられるのか。
読書会で、すべての問いに一つの答えが出たわけではありません。むしろ、読む前よりも疑問が増えたような気がします。
しかし、わからないまま立ち止まり、異なる意見に耳を傾け、自分の立場を問い直すことも、水俣を学ぶことの意義の一つであると思います。
水俣病は、昔の一地域で起きた公害事件ではありません。経済成長のために誰かの命や暮らしが後回しにされること、組織の中で個人が声を上げられなくなること、制度の線引きによって苦しむ人が取り残されることは、現在の社会にも続いています。
『苦海浄土』を読むことは、失われた海や暮らし、そこで生きた人々の言葉に触れると同時に、私たち自身の暮らしや社会との関わり方を考えることでもありました。
OMFでは今後も、水俣病や環境問題、社会の中で見過ごされがちな声に向き合いながら、さまざまな地域や世代の人と一緒に学び、考える場をつくっていきます。

