水俣でみた暮らしと風景 ― 『苦海浄土』から始まるフィールドワーク

2026/06/14水俣プロジェクト
水俣でみた暮らしと風景 ― 『苦海浄土』から始まるフィールドワーク

4月11,12日の1泊2日で「― 水俣にかかわるとは ― 今も続く水俣病と私たちの社会」 をテーマに熊本県水俣市を訪れ、水俣病の歴史、地域の再生や共生の在り方について学ぶフィールドワークを開催しました。今回はその様子についてまとめています。

今年は、5月1日で水俣病公式確認から70年となる節目の年を迎えました。70年経った今でも、水俣病を生み出した社会構造は形を変えながら今もなお続いており、それは決して水俣という一地域や特定の人々だけの問題ではありません。

今回の水俣フィールドワークでは、

  • 水俣病を歴史として学ぶのではなく、「わたしたちの水俣病」として捉え直し、現代を生きる私たち一人ひとりの問題として向き合うこと
  • 水俣という土地が持つ自然の豊かさや、困難な歴史の中で生き抜いてきた人々の強さに触れることで、「水俣=公害の地」という一面的な理解を超えていくこと

これらを目指しました。

苦海浄土オンライン読書会を通じて

OMFでは、フィールドワーク開催までの3か月間、『苦海浄土 わが水俣病』を読み解くオンライン読書会を開催しました。著者である石牟礼道子さんの言葉に触れることで、水俣病という出来事の奥にある背景へと目を向けるきっかけを得ました。

文章から立ち上がる当時の水俣のまち、人々の暮らし。そこから読み取ったこと、考えたこと、そして生まれた疑問を持ち寄り、対話を重ねながら事実と向き合う時間となりました。読書会には全国から幅広い年代の方が参加してくださいました。ここでの学びが今回のフィールドワークにどう結びついていくのか、水俣に行くのが楽しみになりました。

新水俣駅に集合し、1日目が始まりました。

相思社・水俣病歴史考証館で知る「一面的ではない現実」

最初に訪れたのは、一般社団法人水俣病センター相思社・水俣病歴史考証館。

ここでは、吉永利夫さんからお話を伺いました。当時の社会や暮らし、水俣で生きる人々の関係性——その土地で実際に生きてきたからこそ語られる言葉には、重みと具体性があり、水俣病を様々な角度から知ることとなりました。

本を読んだとき、チッソはメチル水銀を含む排水を流し続けた存在として、強く非難される対象だと捉えていました。しかし実際には、水俣の人々にとって、そして日本の発展にとっても、非常に重要な役割を担ってきた企業であるということに気づくことになりました。

チッソは高度経済成長期の化学工業を支え、地域経済や行政とも深く結びつき、水俣は企業城下町として発展してきました。この当時から、便利で豊かな暮らしをするために化学の恩恵を受けてきたのだと再確認しました。だからこそ単純に「悪」と断じることはできず、感謝と依存、対立や差別、苦しみが同時に存在していたという現実がありました。この出来事があったという事実は、決して他人事ではありません。

「なぜ汚染された魚を食べ続けたのか」
その問いには至ってシンプルな答えとして「魚がおいしかったから」なのではないか、と吉永さんは話されていました。

不知火の海はかつて「魚湧く海」と呼ばれ、漁業が盛んでした。メチル水銀が含まれていても、味は変わらない。毎日の食卓に魚が並ぶのは当たり前のことでした。すぐに症状が出るわけではなく、気づかぬうちに体内に蓄積していく。
目に見えないもの、味ではわからないもの。それでも確実に、身体は食べたものでつくられていく。これは、食が持つ豊かさと同時に、負の側面を示しているように感じました。

想思社・考証館の時間を経て、水俣の背景を正しく知っていくこと、水俣のことを共に考えることや自分の在り方に問を立てることが今できることなのではないかと考えています。

相思社を後にし、丘の上から見渡した不知火海は、太陽の光を受けて静かに輝いていました。その景色を胸に刻みながら、街歩きへと向かいます。 

水俣 街歩き

乙女塚~湯堂漁港~坪谷~百間排水溝~チッソ正門前を訪れました。

乙女塚

胎児性患者であった上村智子さんの遺品などが納められており、毎年水俣病互助会による慰霊式が行われている場でもあります。『苦海浄土』に心を動かされた一人である砂田明さんによって建立されました。同じ一冊の本をきっかけにこの地を訪れていることに、時間を越えたつながりや水俣病は過去のものではないということを感じました。

湯堂漁港

ゆったりとした時間が流れる昼下がりの漁港では、地元の方々が釣りをされている姿がありました。釣った魚を見せてくださり、「ここの魚はおいしい」と仰っていたその言葉から、今も昔も水俣の地で変わらない一面をみました。

百間排水溝

水俣湾から百間排水溝まではかつて海でしたが、今は埋め立てられています。この排水溝は36年間もの間メチル水銀を含む工場排水が流れた場所です。どれだけの時間と費用をかけても、完全に元に戻すことはできない。この場所を通じて世代を超えて事実を受け継いでいくべきだと思いました。

Tojiyaでの対話:関係性の複雑さに触れる

温泉ゲストハウスTojiyaでは、木戸理江さんと対話の時間を持ちました。
木戸理江さんは、水俣に暮らしJNC(旧チッソ)で社員として働きながら長年にわたり工場見学の担当として、水俣病の歴史や企業の取り組みについて多くの来訪者に伝えてこられました。現在は、水俣市議会議員として活動されています。
当時のチッソや水俣はどんな様子であったのかなど質問を投げかけながら対話をする時間となりました。

特に印象に残ったのは、患者、企業、行政の関係についての言葉です。
対立した関係であるとの線引きをして物事をとらえたがるのは外部の人であると仰っていて、時には肩を並べて歩くこともある、ということには驚きました。
加害と被害という構造は確かに存在します。しかし、その中で生きる人々は、その関係性だけで割り切れるものではありません。存在する不平等を前に誠実に向き合うことが必要で、水俣で共に歩むことが水俣で暮らし続けることの一つなのだと思いました。

STUDIO VEGANでの夕食:誰もが囲める食卓

水俣で育まれた食材や旬の食材をふんだんに使用したビーガン料理の数々。3日間かけて丁寧に仕込んでくださった名もなき創作料理。色鮮やかに大皿に盛られたようすは、見ているだけでわくわくしました。

この場所を主宰されているのは吉村純さんです。吉村さんのなぜ、ビーガン料理なのかというお話や料理の哲学には感銘を受けました。それは、吉村さん自身がビーガンの生活をされているわけではなく、ビーガンを広めようとされているわけではありませんでした。世界を旅して料理をされてきた中で、宗教により食べられない食材があることで一緒に食卓を囲めないことがあると気づいたことをきっけかに、国籍や宗教に関係なく食卓を囲める形として、ビーガンという食事の在り方にたどり着いたそうです。

文化や宗教の違いを越えて食を共有するための工夫。その考え方に触れながら、食卓が生み出す関係性の豊かさを感じました。

日本でも同じ釜の飯を食うという言葉がありますが、人が集い同じ食卓を囲むからこそ生まれる関係や話があると思います。参加者にもさまざまなバックグラウンドがあった中で、お互いのことについても知る時間になりました。おいしさが詰まった体が喜ぶ料理をいただき、水俣での1日を振り返りました。

からたち:選び取る農のかたち

かつて漁業で生計を立てていたこの地域は、水俣病によって大きな影響を受けました。

その経験から、「人に毒をもられた者は、人に毒をもらない」という強い思いのもと、農薬や化学肥料に頼らない柑橘栽培へと歩みを進めてこられた大澤菜穂子さんにお話を伺いました。

現在は生産者20名程で、年間通して10種類栽培されています。規格外のものはジュースに加工して販売したりと、余すことなくその新鮮な美味しさを届けられています。

小高い丘の上にある海が見渡せる農園で、私たちはグレープフルーツ狩りをさせていただきました。

ここで飲んだ搾りたてのオレンジジュースの味と収穫した果汁溢れ出すグレープフルーツの美味しさは記憶に残る体験となりました。

大澤さんたちは、柑橘を栽培するだけでなく、水俣の海を知るきっかけにとSUP体験ができる取り組みや”からたちの道”という冊子を刊行されています。

SUPでは、年に2回程、胎児性水俣病の方も車椅子で乗る取り組みをされており、これは内海で穏やかな海だからこそできることです。
「簡単に水俣の海は綺麗になりましたと薄っぺらいことは言いたくない」という大澤さんの言葉には、水俣のこれまでの背景のもと今の水俣が在ることを忘れてはならないと、強く示されているようでした。

この後の昼食では、貝汁南里という地元の方々に愛されるお店に伺い、貝汁定食やわっぱ飯をいただきました。美味しいご飯で満たされたところで、次の目的地エコパークへ。

エコパーク:見えないものと、いま目の前にあるもの

ここには、水俣病の原因になった水銀ヘドロや、メチル水銀に汚染された魚をミンチ状にしてドラム缶に詰めたものが、埋め立てられています。穏やかな海の風景の下に、消えない歴史があるという事実。

海を見渡せる親水護岸には、さまざまなかたちや表情をした石造が点在していました。これは魂石(たましいいし)と言って、水俣病の犠牲者や魚の魂が忘れられないように置いてあるそうです。魂石と呼ばれる石像たちが見つめる海は、確かに澄んでいました。来て見ていないままだと水俣の海が今ここまで綺麗になっていることを知らないままだったと思います。しかし、潮の香りの弱さや、海としての変化についての話を聞き、「再生とは何か」という問いが残ります。

水俣病公式確認の日にちなみ、5月1日には毎年「水俣病犠牲者慰霊式」が、エコパークの水俣病慰霊の碑の前で行われています。慰霊碑には、犠牲者名簿とともに、対立を生むことなく、亡くなられたすべての人々にむけた名前のないネームプレートが奉納されています。

水俣病資料館:点と点がつながる時間

エコパーク内にあるこの資料館では、当時の水俣や水俣病患者の様子、事件発生からのことを時系列で示した展示がありました。ここでは、これまで見聞きしてきたことが一本の線としてつながっていく感覚になりました。

それでも残る疑問——なぜ排水は止められなかったのか。
原因物質が特定されてからもなぜチッソがメチル水銀を含む工場排水を36年もの間流し続けたのかということでした。チッソは、日本の戦後の復興や高度経済成長などに大きく関わり、日本の産業の中心であったことが背景にあると思います。
そこには、企業、行政、国、それぞれの立場と判断が複雑に絡み合っています。もしどこかで違う選択がなされていたら、水俣病の拡大や長期化はここまでになっていなかったかもしれません。
患者認定のための裁判は今でも続いています。
この問いは、水俣病を「過去の出来事」にしないために、これからも考え続けていく必要があると思います。また、水俣病は決して「終わった問題」ではなく、今を生きる私たちが向き合うべき事実であることを改めて実感しました。

振り返りワークショップ

フィールドワークの最後には、参加者同士で対話の時間を設けました。
同じ体験をしたからこそ共有できる感覚。それぞれの視点が重なり、学びが深まっていきました。そして、私たちが水俣の地に訪れたことの意義を見出す時間となりました。

今回は水俣で暮らし、それぞれの立場から取り組みを続けてこられた方々にお話を聞くことができたことで、一言でいう”公害”ではなく、住民から見た水俣病という目線で、来なければ知ることができないことがたくさんありました。
教科書や本では見えなかった、水俣の風景や人の表情。実際に足を運ぶことで、理解の先にある実感を得ることができました。

そして、食や自然にも触れる中で「食べることは生きること」であり、食べたもので身体はできているということを再確認しました。

今回水俣に来てみて、水俣にはまだ知らないこと、見えていないことがたくさんあると思いました。それと同時に水俣の魅力に惹かれ、また訪れたいと思いました。

ここで生まれた問いや揺らぎを抱えながら、一人一人がこれからも水俣に向き合うことに繋げていこうと思います。

最後に、参加者の事後アンケートを一部紹介します。

私が普段取り組む気候変動を始め、他の様々な社会課題との共通パターンを見出し、元々持っていた課題意識に対しての解像度が深まった。ただし、答えが出るものではないという意味ではもやもや感はよい意味で強まったかもしれない。

今回は大文字の歴史としての水俣病から深堀って、地域史としての水俣病を学べた気がします。その中で、直接の当事者ではない自分に何が出来て何が出来ないのか考えさせられました。教訓として消費するのも搾取的であるし、かといって無関係だとして何もしないのでは解決にもならない。私たちの社会が高度に「チッソ化」されている中、少なからずその犠牲の下に豊かな生活が成り立っていることに自覚的でなければならないし、問題意識を持って改善に取り組むべきだと思いました。

水俣について知れば知るほど、これがどれほど根深く、終わりの見えない問題であるかを思いしらされた。水俣病という地名を使っているからこそ、水俣=水俣病というイメージはこれからずっと取れないだろうし、公式確認から70年経った今でも裁判で戦っている患者さんはいるし、特にエコパークを歩いた時は自分の歩いている下にメチル水銀によって侵された魚たちが眠っているのだと思うとゾッとした。今も続いている水俣病だからこそ過去の教訓として片付けてはいけないと強く思った。

一番感動したのは、SUPの大会できちんと水俣病のことを伝えるという大澤さんのお話だったかもしれません。水俣病を伝えることはちゃんとビジネスになるんだ、しなきゃいけないんだという吉永さんのお話と、すこし方向性は異なりながらも通じる気がしました。ではどう伝えればよいのかというときに、単純に線引きしないようにという木戸さんのお話もつながってくると思います。大きすぎる感想ですが、「祈り」が中心にあるのだ――と思いながら、そのお話を聞いていました。

構造化してとらえることは重要ですが、それで計り知れない「ナマモノ」的な要素がたくさんある、ある種の気持ち悪さの中に居続けることを大切にしていきたい。

問題を黙らせよう、小さく抑えようとすることが、より問題を大きく深刻に、長期化させること。特に人の心に残した苦しみは、なかなか回復しないこと。

貝田美奈子
貝田美奈子 Minako Kaida
管理栄養士として、主に食育の視点から子どもの食に携わる。食は年齢や性別、国籍、肩書を越えて分かち合えるものであり、世界の共通言語だと捉えている。日本の食文化や自然環境について学びを深めたり、各地で食のイベントを開催したりしながら、食を通じて人と人がつながる場づくりに取り組んでいる。
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