撮影:辻田新也
私たちOMFは2023年3月以来、5回にわたって水俣でのスタディツアーを実施してきました。主な対象は20代~30代の環境問題・社会課題に関心のある若者で、水俣病の歴史や現在の課題に加え、いま水俣でなされている取り組みやその思い、水俣という土地の豊かさなど、様々な観点から水俣を学んできました。それは「水俣を知る」というだけでなく、水俣から私たちの暮らしと社会について考え直すという機会でもありました。そこで私たちが実感したのは、水俣がいかに「学ぶ」ためのきっかけに満ちているかということです。
このインタビュー企画では、さらに多くの人に水俣からの声を届け、私たちの暮らしについて考える機会をつくりたいと思っています。第二弾として、写真家の森田具海さんにお話を聞きました。
もともと水俣の外で生まれ育ち、移住者として水俣にやってきた森田さん。写真への関心、そして石牟礼道子さんの作品を入口に水俣にやってきた森田さんが、どうして現在に至るまで水俣を撮り続けるのか。森田さんと水俣の関わり方、そしてその想いに迫ります。
森田具海はなぜ写真を選んだのか、なぜ水俣を選んだのか
森田さんは、京都で生まれ、幼少時代から絵を描くこと、特に書き写したり、迷路を作ったり、小学生ではギターに夢中になったり、いろんなことが好きな子どもだった。将来的に写真を始める森田さんは、写真集を「CDやプレイリストに似ている」と感じたという。
「1曲目、2曲目、3曲目と続く曲の順番で聴き方が変わるように、写真集もめくる順番で面白さが変わります」
好奇心旺盛な森田さんは、写真を学ぶつもりではなく、当時気になっていた現代美術を学ぶべく、現代美術コースの大学に進学する。
「現代美術・写真コース」では、写真を学ぶ機会はあったものの、さほど興味はなく、むしろ写真自体には苦手意識があり、ちゃんと撮った経験やカメラの知識もなかった。しかしながら、周囲からは「写真コースなんだから撮れるでしょう」と頼まれ、撮影する機会だけが増えていった。そこから、写真活動として動きはじめ、写真集に触れる機会も増え、写真集を読む面白さに気づいていった。
写真撮影に興味を持つきっかけの一つは、大判カメラだ。布をかぶってピントを合わせる、撮影に非常に時間がかかり難易度が高いカメラである。大判カメラでの撮影では、決定的瞬間を逃してしまうにも関わらず、なんだか楽しいと感じることが多かった。
「暗い布の中でルーペを当ててピントが合った瞬間の景色は『めちゃめちゃ綺麗』なんですよ。人の目は、逆さに映った景色を脳が補正して見ていますよね。一方で大判カメラは、ただの箱であるため景色を本当に逆さに映し出すんです。それによって日常の風景が新鮮に見えるんです。」
写真を極めるため、大学院進学を決め、京都から東京へ移り住む。東京では新たに学ぶ情報や、機会は多いものの、自身の将来を考えると東京での美術活動のイメージは持てず、別の土地に住みたいという気持ちが強くなっていった。大学院の先輩たちの活動を見ていると、写真家としてのキャリアは、都会を拠点にもたなくてもいいんだな、と思い始め、最初の一歩として水俣に足を運んだ。

なぜ水俣を選んだのか。そのきっかけは、大学3回生の頃に読んだ石牟礼道子さんの本だった。その頃、成田空港建設反対運動があった三里塚に関心があり、滑走路ができる前の風景を知りたいという思いから、その一帯に通い、撮影をしていた。そんなとき、たまたま石牟礼道子さんの『椿の海の記』(河出文庫)を読み、「水俣湾の埋め立て地ができる前の海はどうなっていたのか」も気になるようになってきた。
三里塚での撮影のヒントを得るために、結果的には水俣を何度も訪れた。訪れるうちに石牟礼さんの作品のように、ドキュメンタリーと想像の世界がグレーに描かれた表現を追及したいと思うようになる。幼少期の頃と同じように、知りたい物事に向かって動いていく。
水俣での制作活動が可能であると感じ、大学院修了後、縁やゆかりはないものの、水俣への移住を決断する。
水俣を「外から見る」「中から見る」
移住当初、森田さんは水俣を「外から視点」で見ていたという。一方で、その「外から」が故に水俣病に関する運動や内情をほとんど知らず、純粋に多くの人の話を聞きたいと思っていたため、ふらふらとたくさんの人に声をかけていた。「今思えば、たくさん地雷を踏んでいたんだと思う」
時には、「移住者として気をつけろ」「地域と地域内でも仲が悪いんだから」「水俣病という言葉自体はあまり使わないほうがいいんだ」などいろんな言葉を受けた。当初は、素直に人の話に従おうと思っていたが、ある日のこと。温泉で出会った地元の人から「うちは水俣病なんて好かんのよ」と言われ、なぜ水俣病が嫌いなのか、など水俣病のことが語られ始めた。水俣病を語るのはタブーではなかったのか。そんな矛盾に直面しながら話を聞いた。
「水俣には、聞いていたルールや建前とはまた違う<もっと分からない世界>がある気がした。今はその<もっと分からない世界>を行き来している。」と森田さんはいう。きっと見えていない、聞こえていないルールや優しさを住民それぞれが持っているのだろう。
水俣の写真を撮るために水俣に移住した森田さん。制作のために移住当初は「まずは聞くぞ」という気概で始めていたが、現在はむしろ結構閉じこもっているという。その理由は、話を聞けば聞くほど、知らなかったこと、分からないことが増えていき、自分が思っていた「正しさ」や「優しさ」が分からなくなってきたから。
「外から目線」で通っていた頃は、物語をもつ人や彼らの話にひとつの憧れがあり、「それを写真で映したい」という気持ちが強かったが、水俣に住みながら、少し「中の視点」で話を聞くと、自分の生活の土地で物事が起こったのだと実感するようになっていった。
人々の物語がその人の生活や積み重ねてきた大切なものと直結していると改めて気づくと、それを作品にして良いのか、自分がそれを写真に撮って良いのだろうかという迷いがより強くなる。水俣病という言葉を使うことで、その人の日常生活のどこかが壊れてしまうかもしれない。そんな可能性だって見えてきた。

写真という「目」
森田さんは、「話を聞きたい気持ち」と「何も撮れなくなる気持ち」は表裏一体という。多くの話を聞けば聞くほど、人の言葉や声にがんじがらめになり、動けなくなることもある。
しかし、そこで思い切ってシャッターを切ってみると、頭の中の言葉とは無関係に風景が写し出される。そんな写真を見ることで、自分も少しすっきりする。
「写真というメディアは、作者の思いや聞いてきた物語をそのままは映しません。カメラを通して見える世界が、自分が思っていた世界を裏切るような感覚を覚えることがあり、それが写真の面白さだと感じています。」
森田さんは、写真という「目」を使うことで、水俣の新しい見え方や、文章とは違った語り口、関わり方が開けてくるのではないかと考えている。
まさに、2025年9月に福岡で行っていた展示が物語っている。
人から教えられた風景を撮影するのではなく、そこで起こっている語れなさみたいなものを表現するべきではないかという問いかけから生まれた展示会。人から聞いた話を自分の作品とするのではなく、その教えをくれた人の隣で「自分は今、どんな風景を見ているだろう」と自問し、その風景を写真に収めるというアプローチで撮影した写真たちが並んでいた。

「写真家 森田具海」からみて、水俣は今、こう見えている
住み続けて5年が経つ今、森田さんは、自身の中に変わらず「外からの目線」もいるし、「中からの目線」もいる。外と中がグラデーションになっているような感覚だという。水俣の歴史について、埋め立て地ひとつをとっても、公害の象徴的な場所というだけではなく、人の生活の一部の場でもあるというような、多面的に認識することを忘れない。
森田さんは今、水俣病に関心を持ち、水俣を訪れる「外の人」との関わりに葛藤を抱える。水俣に興味を持ち、訪れ、学んでもらえるのは本当に嬉しいが、彼らが何を考えてきているのか、どこまで聞きたいのか、住んでいる人が傷つくことを言われないか、逆に、住んでいる人はどこまでは聞かれたら嬉しいのかなどの皆の気持ちが掴めないからだ。それぞれに変にブレーキをかけたくもないと思っているものの、その思いの立ち回りゆえに、「中」と「外」の両方の立場にいるからこそ、むしろ住んでいる人からも、訪れに来る人からも分かってないんだなと思われるのではないかと思われるのではないかと感じてしまう。
自分の中で「外」と「中」の視点を持ち、迷いながら制作に励んでいるが、充実した活動ができてるというよりも、迷うことやうまく行かないことが多い気がするという。
「自分の写真で何を伝えたいのか、正直自分も結構分からずにいるときもあるんです。でも、写真というツールを使うことで、水俣に対する『新しい見え方』や『関わり方』が開けてくるんじゃないかなと思っています。」
写真を見せることで、水俣が持つ様々な要素を多面的に感じてもらい、それによって「水俣のこういう場所に行ってみたい」「こういうこともっとしていきたい」と思うきっかけにつながることを願っている。
2月28日から3月15日まで熊本市のIso Booksにて「森田具海写真展 港の木 タイドプール」が開催されます。初日2月28日は17時よりオープニングトークも予定されています。ご関心のある方は以下のリンク先をご確認ください。


