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OMFインタビュー第1弾:伊藤友弥さん

2025.07.05

#水俣プロジェクト
OMFインタビュー第1弾:伊藤友弥さん

 私たちOMFは2023年3月以来、4回にわたって水俣でのスタディツアーを実施してきました(2025年4月現在)。主な対象は20代~30代の環境問題・社会課題に関心のある若者で、水俣病の歴史や現在の課題に加え、いま水俣でなされている取り組みやその思い、水俣という土地の豊かさなど、様々な観点から水俣を学んできました。それは「水俣を知る」というだけでなく、水俣から私たちの暮らしと社会について考え直すという機会でもありました。そこで私たちが実感したのは、水俣がいかに「学ぶ」ためのきっかけに満ちているかということです。

 今回このインタビュー企画では、さらに多くの人に水俣からの声を届け、私たちの暮らしについて考える機会をつくりたいと思っています。その第一弾としてお話をうかがったのが、伊藤友弥さん(水俣市・31歳)です。伊藤さんは水俣に生まれ育ち、琉球大学に進学してからアメリカやカナダでの生活を経て、現在では水俣に「おるがんと商店」という天然酵母フードと自家焙煎珈琲のヘルシーファストフード店をはじめ複数の店舗の経営をしています。

 もともと水俣が好きではなかったという伊藤さん。どのような道のりで水俣に再会し、いまの仕事に至ったのか。またここから何を見据えているのか。その冒険に満ちたお話を紹介したいと思います。


沖縄に憧れる少年


 伊藤さんは1994年、水俣市内で三人兄弟の末っ子として生まれました。両親とも水俣出身ですが、水俣病についての話を家のなかですることはなかったといいます。学校ではもちろん水俣病のことを習いますが、「水俣」への差別は未だにあり、サッカーの試合で県外にいくと「水俣」とゼッケンに書いてあるのを見てからかわれることもありました。学校で胎児性患者の方の講話を聞いたときには、その様子を真似するような同級生もいましたが、それはそういう息苦しさを子どもたちも背負わされていた反動だったかもしれないと、伊藤さんは振り返ります。そしてじつは自分の親戚に水俣病で亡くなった方がいたということを、伊藤さんはごく最近になってはじめて知ったといいます。隠していたわけではないかもしれませんが、水俣病のことはそれほどまでに語られないのでした。

 中学三年生のときにクロスカントリーの大会に出場して沖縄旅行のチケットを手に入れた伊藤さんは、兄弟で連れ立って沖縄に行きます。それは、以後の人生を変えるほど大きな体験でした。それまで「クソがつくほどの悪ガキ」で攻撃的だった自分を、沖縄の人々や雰囲気は、あたたかく包み込んでくれたのです。人にやさしくすることの幸せというものをそこで知ったと伊藤さんは言います。

 それはいま振り返ると、アメリカに行ったときと似た感覚だったといいます。沖縄は日本に属しているけれども、自分が息苦しく思っていた日本の空気とは違うものがある。「右向け右」的な雰囲気がいやだった自分にとって、沖縄は自由で、居心地の良い場所だと感じたのです。

 伊藤さんはすっかり沖縄に夢中になり、自室の入り口に「沖縄人しか入れません」と書いた自作の札を掲げるほどでした。それに対して水俣は、自然も都会らしさも中途半端に思われ、好きになれませんでした。大学は沖縄に行きたい。しかしそのためには国公立でないといけないと両親は言う。勉強が嫌いだった伊藤さんは、それから沖縄の大学へ行くために猛勉強を開始しました。そして勉学の傍ら打ち込んだのが、三線です。独学で三線を練習し、部屋は沖縄一色になり、沖縄で三線を学ぶことを夢見る――そんな高校時代だったと言います。

沖縄からアメリカへ


 無事に琉球大学に入学した伊藤さんは、あこがれていた三線のサークルの門を叩きます。ところが蓋を開けてみると、「自分のレベルが思ったより高すぎた」ことに拍子抜けしてしまいます。ネットでプロレベルの演奏動画を見ながら練習していたので、却って同年代の人たちより上達してしまっていたのです(もちろん才能もあるに違いありません、伊藤さんは自分でそう言いませんでしたが)。

 三線への熱が冷めていく伊藤さんを捉えたのは、街中で耳にしたブルーグラスでした。ブルーグラスとは、カントリーミュージックに近い、スコットランド・アイルランドに起源を持ちアメリカで発展した音楽のジャンルです。テンポも早く楽器の編成も初めて聞くその音色に魅了された伊藤さんは、自分でブルーグラス同好会を立ち上げてしまいます。とはいえ本格的に教えられる人がいるわけでもありません。せめて自分だけでも本場で学んできたいと思い、大学を休学してアメリカに発ったのでした。

 そこからの生活は波乱万丈、直截に言えば無鉄砲なストーリーで、度肝を抜かれます。

 カントリーミュージックの本場であるテネシー州のナッシュビルに渡った伊藤さんはまず語学学校に通いはじめますが、なんとなく自転車で行けると思っていた距離が車で1時間半はかかるなど、日本とは違う土地の規模に直面します。ヒッチハイクをしたり他にも危ない手段で移動したりしていたのを、さすがにたしなめられて車を買わざるを得ず、そのためにほぼ一文無しになってしまいました。中古で買ったジープは事あるごとに故障し、それを修理していたら本当にお金がなくなり、アパートを追い出されてしまいます。語学学校は途中でやめてキャッシュバックしてもらい、ホームレス生活を3ヶ月間続けることになりました。そのあいだ伊藤さんは、日本から新しく送ってもらった三線を(というのも、元々持っていたものはジープを買うために売ってしまったので)ナッシュビルのストリートで弾き、日銭を稼ぎました。その頃のことを伊藤さんは「生命力というものを感じましたね」と笑って語ります。


カナダでの修業時代


 さすがにそのままの生活を続けるわけにもいかず、伊藤さんはワーキングホリデー制度でカナダに働きに出ることにしました。西海岸のアメリカ国境付近にバンクーバーがありますが、そこから内陸へ山を超えていった先の谷あいにペンティクトンという都市があります。夏にはリゾート地として賑わう場所ですが、伊藤さんが仕事を求めて訪れたのは閑散期でした。100件近く仕事に応募しては落とされた伊藤さんを拾ってくれたのが、とある日本料理店でした。三線にあこがれ、ブルーグラスに導かれた伊藤さんは、寿司職人としてカナダで働くことになったのです。

 その店を経営する料理人の菅龍夫(かん・たつお)さんが、自分の人生の師になったといいます。隣で寿司を握りながらマスター(菅さん)に教えてもらったことは、食のことだけではありませんでした。凄腕の経営者でもあった菅さんには、ビジネスの基礎を学び、また生きることの意味といった面でも多くのことを教わったといいます。この出会いがなければいまの「おるがんと商店」もなかったのです。土台がしっかりできていれば、その上に成るものもしっかりと育つ。そうすればどんな業界にいっても大丈夫だ。そういう心構えとともに、まさにその土台を教えてもらったのでした。

 いまでこそ飲食店を経営する伊藤さんですが、日本料理店で働き出した頃は、食にまったく関心がなかったといいます。それは当然マスターに見破られ、「トモには食べ物への愛がない」と怒られていました。その言葉をよく分からないまま聞いていた伊藤さんでしたが、ある日先輩に「その天ぷらを、休み時間に好きな人に持っていくと思って揚げてみろ」と言われて揚げてみたところ、そんな事情を知らないマスターから出来栄えを大いに褒められます。食には思いが乗るらしい。これはなんだかおもしろい、と伊藤さんは思いはじめました。

 そんな折に同僚のシェフからわたされたのが、発酵に関する本です。日本とアメリカでは添加物の基準も違うのだといったことを知るにつけ、体に良い食とはなんだろうと考えていた伊藤さんは、その本にテネシー州のマーフリーズボロという地名が出てきたので驚きます。それは偶然にも自分が語学学校に行くために住んでいたところでした。

 カナダでのワーホリを終えてから、伊藤さんは発酵の実践家であるサンダー・キャッツ氏のキャンプに参加します。電気もガスも水道も通っていないところで、様々な発酵食品をつくる共同生活。そこでキムチを作ったときのことが忘れられないといいます。手でつくるキムチは、自分の身体にいる常在菌の状態によって出来が変わってきます。都市生活に慣れた感覚からすれば、いちいち石鹸で手を洗うこともできないその環境は「衛生的」ではないかもしれません。しかし「隣の人のために作る」というワークショップで思いを込めて作られたキムチは、これまで味わったことがないほど美味しかったのです。


水俣との再会


 日本に帰国した伊藤さんは、しばらく沖縄でインターンやアルバイトを掛け持ちしながら暮らして、在学中の長期休みに水俣に帰省しました。数年ぶりに戻ってきた水俣の印象は「こんなにさびれてたっけ?」というものでした。同時に、郷土への愛のようなものがここではあまり感じられないということも、発見でした。「愛国心」というといろいろなニュアンスが伴いますが、海外では多くの人が自分の国の国旗をあしらったバッヂを持ち物につけていたりするのに対して、日本ではあまりそういうことがない。自分の中にも、水俣という町への愛やリスペクトがない、ということにも気づいたのでした。それは自分を育ててくれた町に対して失礼ではないか、と伊藤さんは思ったのです。

 それは、冒頭で書いたように水俣はいろいろなものが中途半端だと感じていたというだけでなく、やはり幼少期から「水俣」への差別を経験していたからかもしれないといいます。大学に入って自己紹介をする際にも決して「水俣出身」とは言えず、熊本県、そのなかでも南の方、葦北ってわかります?――というふうに言っていたのです。ほかの同級生も多くの人が同じように感じ、振る舞っていたといいます。

 そんななか、久しぶりの帰省時に同級生と飲んでいて、自分の将来やりたい水俣での事業の夢を語ったところ、「一緒に水俣でやりたい」と応じられ、気が付けばその同級生は伊藤さんとの事業のために仕事をやめることになっていたのでした。 さらにその同級生は友人を引き連れてきて、伊藤さんが具体的な計画や覚悟を固めるまえに、後には引けない状況になっていたのです。伊藤さんはカナダの日本料理店や沖縄のインターン先で働くことも選択肢に入れ、いずれにせよ事業を立ち上げるならもう一度海外で勉強してからと考えていましたが、これは本気で応じなければならないと思い、同級生の勢いに押されるようにしてすぐにも事業を始めることにしたのです。

おるがんと商店


 体に優しいファストフード店「おるがんと商店」がオープンしたのは2020年8月です。それはちょうど、前年末からのコロナ禍に重なっていました。

 もともとは宿泊事業をやるつもりだったといいます。水俣は海外も含めて外からそれなりに多くの人が訪れる町ですが、その割には宿泊施設が限られています。ホステルをつくって、そこにカフェスペースも設け、地元の人と外から来る人とが交流できるような場所にしたい。それが当初の目論見でした。ところがそれが、コロナ禍の影響で実現できなくなります。さらには仲間も一人増え、とりあえず給料を払えるだけのお金を稼ぐ必要に迫られました。

 そんななかで考えたのが、コロナ禍でも需要が途絶えず自分たちのスキルを活かせる、飲食店でした。おるがんと商店はカフェらしい様子で、食べログを見ても「カフェ」となっていますが、伊藤さんたちは「ヘルシーファストフード店」を名乗ります。そこには、食事に時間や気力が割けないときでも、気軽にヘルシーなものが食べられる場所にしたいという思いが込められています。水俣の食材や天然酵母パンで提供するメニューは、そういう意味で「ファストフード」なのです。

 もちろん苦労も多かったといいます。入念に計画を立てて実行するというよりはとにかく行動する、という性格をカナダにいる間に周囲の大人にほめられ、そのことを得意に思っていたけれども、いま考えるとそれはどこか履き違えていたかもしれない、と伊藤さんは振り返ります。しかしそれでも、深刻に不安になることはありませんでした。そして事実、一緒に働く仲間たちには、いつも給与を遅れずに渡せたのでした。仲間たちの信頼に応えられたということを、伊藤さんはなにより大事に語りました。


さまざまな人が交差する水俣


 おるがんと商店に至るまでの波乱万丈の物語を聞かせてもらった私たちは、最後に水俣という場所を伊藤さんがどのように見、考えているかを聞きました。その答えは大きなビジョンを描き出すというより、目の前の人との出会いを大事にしてきた伊藤さんらしいものであると同時に、だからこそ広がる可能性がある、と思わされるものでした。

 じつは水俣には現在地域おこし協力隊がおらず、いたときでもたかだか一人でした。それがひとつの表れかもしれませんが、外から来るものを受け入れて変化していくということに、町の雰囲気としても行政としても、消極的な気がすると伊藤さんはいいます。伊藤さん自身は、いちど地元を離れたからこそ、地元に対する見方が変わりました。変化を怖がらずに受け入れるということを大事にしたいと伊藤さんは語ります。

 水俣病に関心をもって私たちが外から水俣を訪れるとき、いつもお世話になるのが水俣病センター相思社です。しかし町の多くの人と相思社のあいだにはやはり距離があり、実態をよく知らない人は多いといいます。いまは伊藤さん(おるがんと商店)と相思社はつながりがあり、私たちが相思社に行ったときにもおるがんと商店のサンドイッチをそこでいただきましたが、その交流のきっかけにも「外から来た人」がありました。

 あるとき、一人のアメリカ人カメラマンがおるがんと商店を訪れ、水俣病の患者さんたちに会いたいと相談してきました。すぐそばには患者さんたちの作業所があり、付き合いがあったので、伊藤さんはそこを紹介します。はじめは快く受け入れてくれたのですが、いつの間にか周囲では「怪しい人がうろついている」という噂話が流れ、新型コロナウイルスの陰性証明書が必要だと言われ、ホテルに1週間隔離させられ、その指示のすべてに従ったにもかかわらず結局「やっぱり受け入れられません」と言われてしまったのです。伊藤さんは、水俣病の差別に反対している人たちが、どうして外国人だったら差別するのかと抗議しました。その後わだかまりは解け、患者さんたちとそのカメラマンとは非常に打ち解けた関係になったといいます。そしてそのやりとりのなかで、伊藤さん自身も作業所の人たちと、また相思社とも親しく関わるようになったのです。結果的に見れば、そのカメラマンがいろいろな人をつなぐことになったのでした。

 これからの水俣がどんなふうになってほしいか、どうしたいかという質問に対して、伊藤さんはあくまで目の前の従業員や来てくれるお客さんのことをまずはしっかり考えたい、と答えます。小さい個人事業主として地域や社会に対してできることは限られるし、影響を与えたいというのはおこがましい。むしろ目の前の人たちへの感謝を形にして、与えてくれたものを還元したい。その先に自然につながっていくものがあるのではないか。そして希望としては、外から来た人たちが魅力を感じて、Iターンといった形で住みたくなるような町になってほしい。自分はUターンで水俣に戻って来たけれども、みんながそうなることは難しい。外から来るものを柔軟に受け入れられる、そんな町になってほしいと伊藤さんは語りました。

 翻って、水俣を「訪れる」側から考えると、私たちは外から来て、つい「部外者だから」と遠慮してしまうこともあります。しかしひょっとするとそういう境界線はもともとあるものではなく、外から入ってくる私たちの方が、勝手に境界を引く部分もあるのではないか。そういうふうに伊藤さんから問われて、聞き手の私ははっとするのでした。


お話を聞いて


 「沖縄の大学からアメリカやカナダでの生活を経て水俣にUターンしてカフェをやっている」というのが、伊藤さんについて私の知っていることでした。それで想像するのはふつう、もともと食に興味があったとか、それでなくても計画的に留学して帰ってきたといったことではないでしょうか。そういう期待が裏切られて、痛快でさえあるお話に(もちろん苦労は計り知れませんが)聞き入ってしまいました。

 見方によっては無鉄砲な生き方です。しかしよく考えてみれば、伊藤さんはこれ以上ないほど「出会い」を大事にしてきたのだと思います。大事にしてきたというより、人生を変えられてきたというべきかもしれません。沖縄との出会い、ブルーグラスとの出会い、寿司屋のマスターとの出会い……。そして水俣との再会。そのたびに伊藤さんの人生は直角に近い急カーブを描いて方向転換します。それでも、どこか一貫したひたむきさを感じさせるのです。

 いろいろな人と出会うというのが、大事なことなのだと思います。ただ物理的に同じ空間にいるとか、いくらか言葉を交わしたというだけでは、人と「出会う」ことはできません。特に自分と異なる性格や背景や考え方をもった人と「出会う」ためには、自分が開かれている必要があります。伊藤さんはそういう意味で開かれた人なのだと感じました。食を共にする場というのはきっと、人が互いに開かれ、出会う場です。「おるがんと商店」への道のりは、偶然の連続のように見えて、そんなふうにつながっているのではないかと思いました。

 そのことは、水俣と関係ないといえば関係ないことです。しかし私自身が水俣に惹かれるのは、なにかそういう「開かれる」感覚があるからだと気づきました。これは私の勝手な感覚にすぎませんが、そういう感覚を受け止めてくれて、思いがけない出会いに満ちているところ。ひとりひとりの人間が光っているところ。それが私の水俣に対するイメージです。そういう出会いに満ちた場を「つくる」ためには、たぶんまずそこに自分が入っていって、自分が開かれることが肝心です。そんなことを考えて、とにかくまた何度も水俣に行きたいなあ、と思ったのでした。

(聞き手:宮田)



 まず、1時間半のインタビューがあっという間に感じるほどお話が面白かったです。インタビューが終わった後には冒険の映画を見終わったような爽快感すらありました。きっといろんな困難を乗り越えてきて大変だったはずなのに、明るく話す伊藤さんの姿は水俣のホープです。

 外に出て、地元に戻った時に「え、ここってこんなに寂れていたんだっけ」と思う気持ちは共感でしたが、そこに灯をつける役割を、たとえ同級生の突拍子もない行動に押されるようにしてでも、担えてしまう伊藤さんのバイタリティとガッツは同年代としてリスペクトです!!

 水俣には住んでいないけど、水俣が大好きな私たちとして、これからもっといろんな形で連携させてもらえると嬉しいなと思いました。

(聞き手:佐々木)

宮田晃碩

宮田晃碩 Akihiro Miyata

博士(学術)。専攻は哲学。特にマルティン・ハイデガーの哲学や石牟礼道子の文学を手がかりに、言語と共同性の関係について研究しながら、様々な生き方や立場の人たちが互いの知を尊ぶような対話の場づくりに取り組んでいる。共編著に『フューチャー・デザインと哲学――世代を超えた対話』(勁草書房、2021年)、論文に「住まうことと語ること――石牟礼道子『苦海浄土』の沈黙と亀裂へ向けて 」(『Heidegger-Forum』vol. 14, 2020年)など。

佐々木彩乃

佐々木彩乃 Ayano Sasaki

九州大学、清華大学シュワルツマンスカラーズ(修士課程)卒。キャリア教育団体のMIRACTを創設、アジアの若者のプラットフォーム兼メディアのTHE LEADS ASIAを共同創設。頑張りたいと思う人が頑張れる環境・地域づくりを目指し、様々なプロジェクトに取り組む。 グローバルシェイパーズコミュニティ福岡のキュレーターとして地域の課題に取り組んでおり、2024年は日本代表として中国・大連にて開催されるサマーダボスに参加。